裁判官宮川光治の反対意見(判決文の一部)

裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。
本件は少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題であると思われる。憲法は個人の多様な思想及び生き方を尊重し,我が国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして,憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し,その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。このような視点で本件を検討すると,私は多数意見に同意することはできない。まず,1において私の反対意見の要諦を述べ,2以下においてそれを敷衍する。

1 国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は,私もその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に,自発的に行う行為であり,式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし,そうではない人々が我が国には相当数存在している。それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし,平和主義や国民主権とは相容れないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り,人格的アイデンティティをも形成し,思想及び良心として昇華されている。少数ではあっても,そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる。
上告人らが起立斉唱行為を拒否する前提として有している考えについては原審の適法に確定した事実関係の概要中において6点に要約されている。多数意見も,この考えは,「『日の丸』や『君が代』が過去の我が国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」としており,多数意見は上告人らが有している考えが思想及び良心の内容となっていること,ないしこれらと関連するものであることは承認しているものと思われる。
上告人らが起立斉唱しないのは,式典において「日の丸」や「君が代」に関わる自らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念を表明しようとする意図からではないであろう。その理由は,第1に,上告人らにとって「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する行為は,慣例上の儀礼的な所作ではなく,上告人ら自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を越える行動であり,上告人らの思想及び良心の核心を動揺させるからであると思われる。第2に,これまで人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者として,その魂というべき教育上の信念を否定することになると考えたからであると思われる。そのように真摯なものであれば,本件各職務命令に服することなく起立せず斉唱しないという行為は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるとみることができ,少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。
上告人らは東京都立高等学校の教職員であるところ,教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するということもあり得るであろう。その場合は,教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。しかし,それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては(式典もその一つであるといえる。),自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められるということはないというべきである。なお,音楽教師が式典において「君が代」斉唱のピアノ伴奏を求められる場合に関しても同様に考えることができる。
国旗及び国歌に関する法律の制定に関しては,国論は分かれていたが,政府の国会答弁では,国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないことが示されており,同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。しかしながら,本件通達は,校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問うとして,都立高等学校の教職員に対し,式典において指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求めており,その意図するところは,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制しようとすることにあるとみることができる。本件各職務命令はこうした本件通達に基づいている。
本件各職務命令は,直接には,上告人らに対し前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を持つことを禁止したり,これに反対する思想等を持つことを強制したりするものではないので,一見明白に憲法19条に違反するとはいえない。しかしながら,上告人らの不起立不斉唱という外部的行動は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるか,少なくともこれと密接に関連している可能性があるので,これを許容せず上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は憲法審査の対象となる。そして,上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図を持ってなされたものでない限りは,その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきであると思われる。本件は,原判決を破棄し差し戻すことを相当とする。

2 上告人らの主張の中心は,起立斉唱行為を強制されることは上告人らの有する歴史観ないし世界観及び教育上の信念を否定することと結び付いており,上告人らの思想及び良心を直接に侵害するものであるというにあると理解できるところ,多数意見は,式典において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではないとしている。多数意見は,式典における起立斉唱行為を,一般的,客観的な視点で,いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を,一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。なお,多数意見が指摘するとおり式典において国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であるが,少数者の人権の問題であるという視点からは,そのことは本件合憲性の判断にはいささかも関係しない。
前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する者でも,その内面における深さの程度は様々であろう。割り切って起立し斉唱する者もいるであろう。面従腹背する者もいるであろう。起立はするが,声を出して斉唱しないという者もいよう(なお,本件各職務命令では起立と斉唱は一体であり,これを分けて考える意味はない。不起立行為は視覚的に明瞭であるだけに,行為者にとっては内心の動揺は大きいとみることもできる。他方,職務命令を発する側にとっても斉唱よりもむしろ起立させることが重要であると考えているように思われる。)。しかし,思想及び良心として深く根付き,人格的アイデンティティそのものとなっており,深刻に悩んだ結果として,あるいは信念として,そのように行動することを潔しとしなかった場合,そういった人達の心情や行動を一般的ではないからとして,過小評価することは相当でないと思われる。

3 本件では,上告人らが抱いている歴史観ないし世界観及び教育上の信念が真摯なものであり,思想及び良心として昇華していると評価し得るものであるかについて,また,上告人らの不起立不斉唱行為が上告人らの思想及び良心の核心と少なくとも密接に関連する真摯なものであるかについて(不利益処分を受容する覚悟での行動であることを考えるとおおむね疑問はないと思われるが),本件各職務命令によって上告人らの内面において現実に生じた矛盾,葛藤,精神的苦痛等を踏まえ,まず,審査が行われる必要がある。
こうした真摯性に関する審査が肯定されれば,これを制約する本件各職務命令について,後述のとおりいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的に合憲性審査を行うこととなる。

4 平成11年8月に公布,施行された国旗及び国歌に関する法律は僅か2条の定義法にすぎないが,この制定に関しては,国論は分かれた。政府の国会答弁では,繰り返し,国旗の掲揚及び国歌の斉唱に関し義務付けを行うことは考えていないこと,学校行事の式典における不起立不斉唱の自由を否定するものではないこと,国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないこと等が示されており,同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。その限りにおいて,同法は,憲法と適合する。
これより先,平成11年3月告示の高等学校学習指導要領は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と規定しているが,この規定を高等学校の教職員に対し起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう。そもそも,学習指導要領は,教育の機会均等を確保し全国的に一定の水準を維持するという目的のための大綱的基準であり,教師による創造的かつ弾力的な教育や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分にあるものであって(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照),学習指導要領のこのような性格にも照らすと,上記根拠となるものではないことは明白であると思われる。
国旗及び国歌に関する法律施行後,東京都立高等学校において,少なからぬ学校の校長は内心の自由告知(内心の自由を保障し,起立斉唱するかしないかは各教職員の判断に委ねられる旨の告知)を行い,式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があったとしても支障なく進行していた。
こうした事態を,本件通達は一変させた。本件通達が何を企図したものかに関しては記録中の東京都関連の各会議議事録等の証拠によれば歴然としているように思われるが,原判決はこれを認定していない。しかし,原判決認定の事実によっても,都教委は教職員に起立斉唱させるために職務命令についてその出し方を含め細かな指示をしていること,内心の自由を説明しないことを求めていること,形から入り形に心を入れればよい,形式的であっても立てば一歩前進だなどと説明していること,不起立行為を把握するための方法等について入念な指導をしていること,不起立行為等があった場合,速やかに東京都人事部に電話で連絡するとともに事故報告書を提出することを求めていること等の事実が認められるのであり,卒業式等にはそれぞれ職員を派遣し式の状況を監視していることや,その後の戒告処分の状況をみると,本件通達は,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる。
本件通達は校長に対して発せられたものではあるが,本件各職務命令は本件通達に基づいているのであり,上告人らが,本件各職務命令が上告人らの有する前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念に対し否定的評価をしているものと受け止めるのは自然なことであると思われる。
本件各職務命令の合憲性の判断に当たっては,本件通達やこれに基づく本件各職務命令をめぐる諸事情を的確に把握することが不可欠であると考えられる。

5 本件各職務命令の合憲性の判断に関しては,いわゆる厳格な基準により,本件事案の内容に即して,具体的に,目的・手段・目的と手段との関係をそれぞれ審査することとなる。目的は真にやむを得ない利益であるか,手段は必要最小限度の制限であるか,関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。結局,具体的目的である「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」における「生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ること」が真にやむを得ない利益といい得るか,不起立不斉唱行為がその目的にとって実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白で,害悪が極めて重大であるか(式典が妨害され,運営上重大な支障をもたらすか)を検討することになる。その上で,本件各職務命令がそれを避けるために必要不可欠であるか,より制限的でない他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等,会場の外における役割を与え,不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することとなろう。

6 以上,原判決を破棄し,第1に前記3の真摯性,第2に前記5の本件各職務命令の憲法適合性に関し,改めて検討させるため,本件を原審に差し戻すことを相当とする。

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戦後最大の謀略、松川事件をたずねる旅

戦後最大の謀略事件のあった松川をたずねる旅に行ってきた。
松川は東北本線の福島駅から3つめの駅で、いなかの小さな街だ。
この町で1949年、列車転覆事件が起こされ、3名の国鉄職員が殉職。その前に起きた下山事件、三鷹事件と同様に共産党、労働組合の仕業だ、と政府、マスコミが宣伝した。

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適当なサイトが見つからないので、松川運動記念会が発行したパンフレットからその背景を抜き出してみよう。

事件の背景
「事件が起きて誰が一番利益を受けるか」これが捜査の常識である。事件の翌日政府は、増田甲子七官房長官談話を発表した。「今回の事件は、いままでにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じものである」と。
犯人もまだわからぬうちに、現場から遠く離れた東京で官房長官が犯人を特定し、操作に指示をあたえるとは驚くべきことである。
★激動の1949年
前年暮れに決定された「経済安定九原則」による占領軍の日本経済全般にわたる指導は、アメリカの経済不況と、中国人民解放軍の北京入場によって確立された中国革命の勝利もあって、急速に強化されていった。 49年1月に行われた総選挙では、民主自由党は264名を当選させて議席の過半数を占め、共産党は一躍35名に躍進した。社会党は片山内閣の失敗から激減し41名に凋落した。その結果、国内では共産党と民主自由党の対立激化が明らかな情勢となってきた。
その上、「行政機関職員定員法」の強引な制定によって、公務員の首切りは26万7千名が予定され、民間産業関係でも20万名がリストに挙げられていた。この年の2月から12月までの間に43万5千名以上が首を切られ、最終的にはこの倍はあったであろうと言われている。
この首切りの嵐が吹きまくっている最中に、下山、三鷹、松川の三事件が起き、この連続した怪事件はいずれも首切り発表と結びついていた。国鉄首切り第1次発表(3万700人)が7月4日、その翌日下山定則国鉄総裁が行方不明となり、6日轢死体となって発見され、国鉄労組関係者が犯人ではないかと大きく宣伝された。
7月12日国鉄第二次首切り(6万2千人)が発表され、15日の夜三鷹駅構内で無人電車が突然暴走し、民家に突っ込んで多くの死傷者を出した。翌日、吉田首相は「共産党は虚偽とテロを常套手段として民衆の社会不安をあおっている。人員整理は国家再建の基礎である」との談話を発表した。
★朝鮮戦争の前夜
この2つのでっち上げ事件によって国鉄労組を中心とする官公庁関係の首切りはさしたる抵抗もなしに行われ、左派勢力は一掃された。
しかし、この大きな打撃の中から国鉄労組福島支部は徐々に戦闘力をもりかえし、たとえ職場から追い出されても、再び職場に戻る日を期して組合員の闘いの中心になろうと組合運動に全力をつくしていた。
福島県下には猪苗代湖を中心とする大発電所群があり、常磐炭田の石炭は距離的に有利な京浜地方や、国鉄および各産業のエネルギー源であり、東北6県と北海道へ通ずる関門として福島県は重要な位置を占めていた。この中心部に国鉄労働組合福島支部があり、電算、炭労のたたかう労働者がいたのである。
政府が官公労働者に加えて打撃の刃を民間産業にも向けたその瞬間、松川事件が起こされた。
東芝松川工場労組は、福島県下民間産業労組のなかでも戦闘力を持つ組合の一つであり、8月12日に32名の首切りが通告され、抗議の24時間ストライキを8月17日決行することを16日夜の臨時大会で決定した。
大会は午後8時半頃終了した。それから7時間たらずの後に、この松川事件が起こされたのである。
しかしこれらの事件の続発は、決して首切り政策のためのみではなかった。翌50年6月6日、日本共産党中央委員24名に公職追放の指令が出され、25日に朝鮮戦争が勃発している。極東情勢の激変のなかで起こされた政治的なフレームアップそのものだった。
即死した3名にいたましい犠牲者、そして乗客と国民与えたショックは大きく、この事件で最も利益を得たものが民衆の犠牲の上に立つ時の政府であり、その背後の巨大な権力者であることは明らかである(強調は引用者)。
松川駅からほどなく当時の東芝、今は”北芝電気"と変わった工場が見られた。

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事件から61年が経ち、当時20代の元被告も80代になっている。今回61年前に列車転覆事件が起こされた現場で、一度は死刑判決も受けて無実を勝ち取った、87歳で健在の阿部市次さんの話を聞くことができた。

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線路の継ぎ目がはずされ、線路がひんまげられることによって明らかに保線などに詳しいものによってしくまれたこと、それは戦前大陸で列車爆破事件を起こした人たちとつながっている可能性があること、自分たちがやった証拠として扱われたヴァールには”Y”という文字が彫ってあり、それはアメリカ占領軍のものである可能性が高いことなどを語られた。

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現場近くの記念塔に移動し、現地の国民救援会の方が、被告を守り、無罪を勝ち取るまでの運動を作る上での困難を語られた。

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松川の住民の中には、無罪を勝ち取った被告は補償ももらったが、転覆で殉職した3人は何の補償もないこと、いまだに住民の中には事故が共産党や労働組合によっておこされたと思っている人もいる、子供たちに”共産党、労働組合によって悲惨な事故がおこされた”と伝えられるのか”国家権力による謀略で悲惨な事故が起こされて共産党や労働組合の弾圧に利用された”と伝えられるのか、せめぎあいの状況が続いているのだ、という話は印象的だった。

福島大学にある松川事件資料室を訪問し、資料整理を続けておられる伊部氏から話をお聞きすることができた。

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全国で行われたきた支援組織の膨大な記録があった。新犯人の像はかなり明確になっているが突き止められてはいないこと、人脈としては戦時中に最先端で謀略活動をやっていた人たちが戦後すぐにアメリカに寝返り、占領軍の意図を受けて暗躍していたと考えられていることなどを語ってくれた。福島大学名誉教授という肩書きを感じさせない気さくな方で、かえってその秘められた情熱が想像された。

裁判は2審まで死刑を含む有罪判決、最高裁で差し戻され、高裁で再び検察が最上告、1963年に最高裁が上告棄却し、全員の無罪が確定した。でっち上げが明確になったにもかかわらずこのように悪あがきをしたのは、裁判を長引かせることにより、真犯人追及をさせないためだったと考えられている。
被告は国家権力の責任を追及するために国家賠償裁判を起こした。
この法定では数々の権力犯罪が暴かれた。
検察当局の最高責任者・安西検事正は、「あなたは被告の無実を知りながら死刑を求刑した、どう弁解するのか」と迫られ、まともに答弁することができなかったという。
一審は被告国の違法行為を断罪し、賠償を命じた。被告国は控訴したが棄却され、1970年被告国の上告断念で松川事件のすべての裁判は完全勝利で終了した。
この国家賠償の裁判の過程で、無罪になったものが国を相手に賠償を求め、権力犯罪を立証し、完全に勝利する先例を開いた。

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今回の学習旅行で最も印象に残ったのは、孤立無援だった被告が団結を強め、家族会を作り、思想信条を超えた全国的支援運動がまきおこり、裁判所さえも動かして勝利を勝ち取っていったことだ。このような誇るべき闘いを先輩たちが作っていたことを学び、伝えていかなければならないと強く思った。

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西沢品さんの記憶と記録

私の家の近所に西沢品さんという人が住んで居られたが、2008年12月、82才でなくなられた。写真でわかるとおり、全く”旗幟鮮明”とされていた方だった。晩年は病気もあり、孤独な生活であり、葬儀も親族のみで済まされたため、地域の親しい人たちが別れを惜しむこともできなかった。一人住まいの家も売却されることとなり、掲示板も今回の参議院選挙の投票日をもって撤去されることとなった。

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西沢品さんについて、私はあまり多くを知っているわけではない。高校の化学の先生をされていたということ。長身でお元気な頃は心身ともにびしっとされたかただった。
思い出としては、横浜資本論講座という講座に一緒に参加していたこと、大学教授のようなひとにもはっきりとものを言う人だった。
宣伝活動などで”忙しくて”とか”疲れちゃって”とか言うと、”そんなこといってないで”と叱られたことがあった。
掲示板は昔はもっと大きな1面のものがあって、目立っていた。そんなこともあって地域では有名なひとであったようだ。いまどきの掲示板になって今回撤去され、西沢さんのことは確実に忘れ去られていくだろうなあ、と思い、この記事を書くことにしたのだった。
Web2.0の時代となって誰もがインターネットで発信できるようになり、全く無名の人でも検索にかかるようになった。西沢さんは言うまでもなくそれ以前に生きた人。試しにYahooで検索してみたら、前進座のホームページのなかに写真入りの記事が見つかった。
http://www.zenshinza.com/hotnews/topics/kunitaro/kunitaro2.htm
それ以外にいくつかのページにお名前が見つけられた。今後「どのようなひとだったのだろう」と思って検索するひとがいるかもしれない。そのときにこのブログも検索されるだろうか。

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政権交代!しかしその先にもっと大切なことが

 8/26付けの「しんぶん赤旗」に一橋大学教授渡辺治さんの「消費税増税と改憲への道」という談話があり、注目した。渡辺治さんは9条の会などでも活躍している人。民主党がマニュフェストに衆院比例定数削減を掲げていることの意味が中心的なテーマだが、政治闘争の現局面をよく言い表していると思われるので、転載する。
 端的に言って、比例定数削減のねらいは保守二大政党以外の少数政党をつぶし、純粋保守二大政党制を完成させることにあります。
 「構造改革」の矛盾が激発するもと、もう一度政治を「構造改革」と軍事大国化の枠内に抑え込むには、比例定数削減によって共産党など、はっきりと「構造改革」ストップを掲げる政党の議席を減らし、国民に保守二大政党の示す狭い選択肢しか見せないことが必要になったからです。

自民党以上に

 問題は、自民党以上に民主党が積極的に衆院比例定数削減を主張していることです。なぜでしょう。
 民主党は結党以来、第二保守政党として「構造改革」を競ってきましたが、07年の参院選では身を翻し反「構造改革」的な方針に転換しました。自衛隊の海外派兵にも基本的に賛成だったのがテロ特措法の延長に反対し、自衛隊のイラク撤兵を掲げる。「構造改革」の犠牲となった農家の個別所得保障や子供手当を打ち出す。アメリカや財界の求める第二保守政党からの明らかな逸脱でした。
 理由はいくつかありますが、一番重要なのは民主党の左側に確固とした政党、特に共産党がいたことです。民主党の左側に反「構造改革」と反軍事大国の旗がはっきりと立ち、国民もそれを見ている。いわんや「構造改革」に対する国民の怒りが高まっているときに、選挙に勝つには保守政党の位置にはとどまれなかったのです。
 いま国民の期待を集めている民主党の政策は、いずれも「構造改革」の枠から逸脱している部分です。民主党が政権の座に着いたとき、一番やっかいなのがこの部分です。財界や米国の要望に応えるにはいずれ「構造改革」に復帰しなければいけないからです。しかし、共産党などの圧力が強いと簡単には戻れない。比例定数を削減し圧力を切ってしまおうというのです。

反対押し切り

 比例定数削減は、実は国民の反対を押し切って「構造改革」や改憲を進める国家づくりの一環でもあります。  「構造改革」は大企業本位の社会をめざす改革ですから、絶えず国民の反発や怒りを買わざるを得ず、それを押さえるために憲法が定める国家構造を壊そうとします。
 その一つが議員定数削減ですが、「三位一体改革」による分権国家づくりもその一つです。分権の名の下に、国の責任を放棄して、地方自治体に「構造改革」を丸投げするものです。比例定数削減が国会を「構造改革」のしやすい形にするものなら、地方自治体を「構造改革」のしやすい形にするのが分権国家構想であり、公務員制度改革や官邸機能強化も同一線上にあります。いずれも自公だけでなく、民主党が積極的に主張している政策です。  こんな「改革」の結果は明らかです。国民が民主党に期待している政策はとても実現しないどころか、代わりに実現するのは財界やアメリカが切望する消費税増税や改憲です。
 比例定数削減は憲法、消費税と並ぶ大切な問題であり、国民はきちんと考え選択する必要があります。
(強調は引用者による)

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中国製ギョーザによる中毒事件

中国製冷凍ギョーザによる中毒問題は、日本、中国双方にとって重大な問題を浮き彫りにしていると思われる。
この問題を巡って一部のブログや週刊誌などでは一方的な中国批判が行われ、中国でも市民の中に”日本の過剰反応”といった見方があるらしいが、双方において冷静に問題の根源までさかのぼった議論が必要であるように思う。

まず日本の問題を考える。
朝日新聞2/2付けによれば、
カロリーベースで食べ物の6割を海外に頼る日本。食料品の輸入額は昨年、約5兆3千億円。うち2割が中国からで、魚介、野菜、肉など約9100億円。10年前に比べ、輸入総額は5%増にとどまっているのに対し、中国からは50%の伸びだ。押し上げているのは焼き鳥、魚のフライ、牛丼の具など加工食品の増加だ。いわば中国が「食の簡便化志向」を支えている。
という現実がある。今後中国産への目は厳しくなっても、排除すれば安く楽しめる居酒屋などは成立しない、と言う。スーパーでも食品売り場の3~4割は中国製とされ「中国製を撤去したら、売り場は成り立たない。日本の食生活が成立しない」と言う。
偶然かもしれないが、1/31日付け朝日の2面でこの問題を報じているが、その紙面の下には現役バイヤー・調達業務研究家坂口孝則の「牛丼一杯のもうけは9円」という本の広告が載っていた。そこでは「薄利多売で終わるか?高収益となるか?それは「仕入れ」の知恵一つ!とうたわれ、「プロが空かす仕入れの丸秘テクニック」として、倒産仕入れ(倒産企業の在庫を丸ごと買い取る)、詐欺仕入れ(廃品回収と偽りお金をもらって商品を入手)などの『手法』が紹介されていた。直接中国からの食品輸入とは関係ないが、「大競争時代」のなかで、『安全』、『品質』などを犠牲にしていかに安く仕入れるかということが追求されていることが期せずして説得力を持って語られていた。

問題はこのように日本が食料の大きな割合を輸入に依存しているのにもかかわらず、国の輸入食品にたいする検査が緩いことだ。厚労省は食品衛生法に基づき、輸入野菜などは抜き取り検査で残留農薬が基準を超えているか調べている。しかし、ギョーザなど多くの原材料を使った冷凍の加工食品については残留農薬の検査はしていない(朝日1/31付け)。06年度は届け出のあった185万件のうち20万件が検査された。厚労省は監査に当たる人員を増やしていいるものの、・・・検査の割合はここ数年、1割程度にとどまっている(同上)。その背景にはアメリカの強い要求で輸入食品の検査を緩和してきた経過があるという(しんぶん赤旗2/2付け)。

中国からの輸入食品といえば思い出されるのは昨年AERAの「元商社マン、ウナギ、養蜂業者らが証言」という記事で、発がん性抗菌剤、抗生物質、農薬などを日本企業が持ち込んでいた、と書かれたことだ。この記事を引用しての『人民日報』の書き方は、悪いものはすべて日本からきたといったもので受け入れられるものではないが、日本の輸入業者に責任の一端があることは確かだろう。朝日2/1付けによれば、
食品メーカは、外食や小売業界からのコスト削減要請に応えるため、大手企業を中心に海外生産へのシフトを進める。
その中心は中国だ。・・・ 現地に駐在員を置く商社が日本メーカの要求する企画を生産できる現地企業を見つけ、品質や納期、コストの管理まで請け負う手法を確立。メーカーにとって中国での生産を「手間のかからない選択肢」に仕立て上げた。
とし、現地の従業員の衛生意識を変えるのに苦労した、という水産加工品メーカの担当者の話を紹介する。ところが、コスト面から、現地での監督に日本側から人手を割くのは難しい、という事情がある。
しんぶん赤旗2/2付けは、
問題の冷凍ギョーザは、中国河北省の「天洋食品」が製造しました。日本たばこ産業(JT)の子会社「ジェイティフーズ」が企画し、総合商社「双日」の子会社「双日食料」と「天洋食品」の三者が協同で試作・生産したものです。コストを引き下げるために、日本企業の企画・指示で海外の工場に生産させる典型的な「開発輸入」です。
安全の確保をコストの犠牲にしていなかったか。当事者はもちろん「開発輸入」に関わった企業には徹底して検証する責任があります。
と指摘している。

こうした輸入業者の問題は、裏返せば中国側の問題と関連してくると思う。
問題の「天洋食品」は設備も衛生管理の仕組みも一流であり、中国で「模範的な工場」とされていたという(朝日2/1付け夕刊)。そういう工場だからこそ輸入業者も目を付けたのだろうが、日本の商社が衛生管理まで指示をするというやり方ではたして企業として自主的な品質向上への意識が高まるのかという疑問が生ずる。
同社では製品は主に日本に輸出されていた。中国当局が「品質管理は完全で、作業員の技術は完全で、作業員の技術も高い」とお墨付きを与える優良企業だというが、それだけに国家の威信がかかってきてしまう。実際今回の事件を中国では食品安全の問題というより、企業や国家の信用失墜をねらったテロ事件として扱われているというが、それは尋常のことではない。この事件を機会に中国での食品衛生の問題を総点検するということにでもなれば、中国にとって得るものがあるだろうが、国家の威信の問題ととらえてしまうと消費者として企業に改善を求めるという事にはならないだろう。日本で赤福は営業を再開したが、消費者の信頼を失墜し、それへの反省を表明し、信頼を回復するための仕組みを作り出すなどのコストを払った。日本においても偽装問題は後を絶たないので引き合いに出すのもはばかられるが、はたして中国において、衛生管理などに失敗したら消費者の信頼が大きく失われるというインセンティブがどの程度はたらいているのかということが気になる。そこにはターゲットになる国民の衛生に関する意識の高さというファクターもあるのだが。

いずれにせよ、日本としては「開発輸入」をするのであればそこで必要な衛生管理がなされるようにする全幅の責任があるのであり、そうでないなら中国の業者を競争原理で選択することによって、中国の業者側に品質へのインセンティブを発揮させるようにし向けることが求められる。たんに安く買いたたくという姿勢に対しては今度は日本の消費者が厳しい目を向けなければならない。

忘れてならないのは、世界的な食糧問題、および地球温暖化防止という視点だ。
バイオマス発電などの影響で世界の食糧問題は逼迫してきた。いつまでもより安いものを求めて国民の生存に関わる食料の多くを輸入に頼るという状態を続けていられる保障はない。また食料の輸入は地産地消に反し、輸送にエネルギーがかかる。低炭素社会をつくるというなら、食料をできるだけ近くから調達するという方向に切り替えていかなければならない。ここで詳しく論ずることはできないが、差し迫って考えなければならない問題でもあるのだ。

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株安・円高で混乱を極める朝日社説

株安と円高が止まらない。
18日の東京株式市場は、日経平均株価の午前の終値が前日比387円67銭安い1万3395円78銭と大幅に反落し、05年10月以来、2年3カ月ぶりの安値水準となった。米景気の後退懸念と円高の進行を背景に、輸出関連企業を中心として全業種で売り注文が先行した。(asahi.com)
1/17の朝日新聞朝刊をを読んでいくと、サブプライムローン問題が各国の市場で混乱を広げ、なかでも東京市場で顕著な株安・円高になっていることを報じているが、
市場では規制緩和などの構造改革や財政再建を求める声が強いが、福田政権では改革路線が停滞しているとの失望感が強く、日本株売りに拍車をかけている。
というところで首をかしげた。経済の専門家でもない私だが「構造改革」路線を若干修正したのは今のタイミングではないし、多分に金融問題が絡んでいる今回の株安などが「改革路線の停滞」のためにおきているというのはちょっと違うのではないかと思ったのだ。金融自由化などの新自由主義的改革のもとで、高リスクのサブプライムローンの債券化などがおこったという世界の現実をも無視しているとしか思えない。
同日の社説では『株安・円高 「もろさ」克服の機会に』と題してこの問題を扱っている。
戦後最長といわれるいまの景気だが、内需の主役である個人消費はずっとさえないままだ。賃金所得が増えないのだから、それも当然といえる。輸出の好調が企業の収益を潤し、それが設備投資に回るという1本足打法の景気構造は、もともと弱さを抱えていた。
米国経済の雲行きが怪しくなり、輸出に不安がよぎれば、株価が打撃を受けるのは目に見えている。
とここまではわかる。 このあと株式市場が「外国人頼み」であること、アメリカ経済変調の深刻さなどを指摘した後で、「日本はそれにどう備えるか」と論を進めるのだが、
ひとつは、国政の停滞感を打開することだ。株安には福田首相の受け身の政治姿勢が少なからず影響している。与野党は、国会のねじれ状態を乗り越えスピード感をもって改革を進めていく、という信頼を取り戻す必要があろう。
 企業も長く異常な円安のぬるま湯につかり、輸出依存を改善できなかったことを大いに反省すべきだ。円高はこの体質の転換を促し、原油・穀物相場の高騰を和らげるプラスの効果ももつ。
 この機会にサービス部門の生産性を上げるなど、内需主導の経済成長に向けた自己改革を進めなければならない。
と結んでいるのにはやはり首をかしげざるを得ない。社説前半の「個人消費はずっとさえないままだ」、「輸出の好調が企業の収益を潤し、それが設備投資に回るという1本足打法の景気構造」が悪いという分析に全く対応していないからだ。「内需主導」をいうなら社会保障削減路線をやめ、「内需の主役である個人消費」を高める方策をとるべきと考えるのが普通だろう。
このような景気構造にした犯人こそが「構造改革」路線だったということにようやく国民の多くが気づき始めているときに、『朝日』は特定の見方にとらわれているように感じられる。もっともこの「新自由主義」には『朝日』に限らず大マスコミの多くが今まだ取り込まれてしまっているのだが。

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まったなしの地球温暖化問題

Co2 お正月の新聞では地球温暖化に関するものが多かった。テレビのコマーシャルでも温暖化防止に関係したものが多かったような気がする。企業がこうしたコマーシャルを打つ目的は2つあると思う。1つは企業イメージをよくすること。もう1つは他社との商品の競争において、地球温暖化防止という点で差別化を図ろうとすること。その前提には消費者が環境問題に関心をもってきていること、商品の選択において環境問題をその基準にするようになっていることがあり、双方にとって良いことだと思う。
さて、これだけマスコミへの露出が多くなった背景には今年から京都議定書できめた温室効果ガス削減の約束年度にはいることと、昨年行われたCOP13(国際気候変動枠組み条約第13回締約国会議)があると思われる。今年日本で行われるの洞爺湖サミットが地球温暖化問題を最重要議題としているということもあるかもしれない。

COP13では先進国と途上国が温室効果ガス削減目標と対策を検討するという合意に達したことは重要な成果だが、「世界全体で排出量を50年までに半減する」という目標数値がアメリカ、日本の反対で採択文書から削除されたことが残念なことだ、と言われている。
COP13では「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の第4次報告書の内容が注釈という形で確認されたが、そこでは温暖化は人間活動で出る温室効果ガスが原因とほぼ断定し、「今後10-15年の間に排出量を減少に転じないと取り返しがつかなくなる」と警告している。COP13では2009までに京都議定書後の枠組みを決めることになっているが、その意味では今年からの2年間が人類の未来にとって決定的な意味を持つということになる。
そのようなときに、日本が京都議定書の目標6%削減の基準年1990年から逆に7%近く排出量を増やしていること、政府が数値目標の設定自体に消極的になっていることをどう考えたらよいのだろうか。昨年11月、12月の新聞スクラップから考えてみる。

昨年11月、経済産業省と環境省の合同審議会は各業界の取り組み状況を検証した。そのなかで自主削減目標を達成できなかったのは日本鉄鋼連盟、電気事業連合会など11業界だった。その鉄鋼業界の言い分を聞いてみよう。
新日鐵社長の三村明夫氏は朝日新聞のインタビューに答えて、排出量取引について、
「(排出枠を)公平なものにするには、国、企業ごとに正当な排出枠を割り当てる必要があるが、それは不可能だろう。日本の鉄鋼メーカーは世界一の省エネルギー技術を持ち、生産量あたりのCO2排出量は最小だ。しかし、これまでの省エネ努力を考慮せずにきびしい排出枠が割り当てられれば、日本での鉄鋼生産が押さえられてしまう。逆に省エネ技術は後れているのに大きな排出枠をもらう国のメーカーは、非効率な生産を拡大して、地球全体の排出量をむしろ増やしてしまう」
と主張している。先進国の多くの国が排出量を減らし始めているなかで逆に増やしている日本の、特に増やしている部門の会社が減らすように枠をはめられたら世界の排出量をふやすことになるという理屈はどうなのだろう。CO2削減の方法については、日本企業の排出量削減のための技術を、発展途上国などに移転することだとし、目標については排出総量ではなく、生産量あたりの排出量にすべきだという。現行の技術で足りない分は革新的な技術開発を進めて補うしかない、とする。これでは地球全体で削減する保障がまったくないことになる。

電力業界のほうはどうかと言えば、国の全排出量に占める石炭火力発電によるCO2排出量の割合が、京都議定書の基準年1990の4.76%から2005年には15.08%に増加していることが国会審議のなかで明らかになっている。石炭火力を増やすのはエネルギー安保や安価の石炭でコスト削減という観点からだろうがその結果CO2が増えているのでは自主削減という方法自体に問題があると言わざるを得ないだろう。

一方政府は洞爺湖サミットに向け、産業部門別にCO2の排出量目標を立て、国別の総力削減目標と合わせて温室効果ガス削減を目指す方式を採用することを働きかける方針を表明するという。経済活動量あたりのCO2排出量を指標として目標を設定するので、経済活動量が増えれば排出量が増える可能性もあり、大幅な排出削減が実現できる保障はないとの批判が避けられない(朝日07年12/10付け)、といわれている。この方式は前に掲げた新日鐵社長の発言と符合してくる。
また、昨年12/21環境省と経済産業省の合同審議会は政府の目標達成の見直し案をだしたが、追加削減策を入れたものの、相変わらず企業の自主計画と国民運動に頼ったもので、実効性がないと批判されている。

このように見てくると、日本の場合、大口排出者である企業の消極的な姿勢に引っ張られて、政府が積極的になれないということがわかってくる。

地球温暖化対策の先進国の場合はどうか。
ドイツ政府は2020年までに温室効果ガス排出を90年比で最大40%削減する目標を定めた。対策としては自然エネルギーを現行の13%から25~30%に引き上げる、車の税金を排気量ではなくCO2排出量決める、住宅の太陽光利用への補助金などが挙げられている(朝日07年12/2付け)。(2010年までの自然エネルギーの導入目標はドイツ12.%、フランス20%、イギリス10%などにたいし、日本は1.35%!)
温暖化対策に消極的と言われてきた米国でも、発電所や工場、自動車燃料を対象に排出枠を設定し、年々、その枠を縮小、排出量取引を併用して、2050年に排出量を05年レベルから63%減らすことを目指す法案が議論されている。

民間でも、昨年11月30日、欧米豪と中国の150以上の企業が地球温暖化対策の強化を求めて共同宣言を発表。京都議定書後の温暖化対策について、温室効果ガス排出量を科学的な知見に基づき数値目標を設けて規制する枠組みを支持した(しんぶん赤旗07年12/2付け)。イギリスでも、約24万の企業・業者を参加に置く英産業連盟は2050年までにCO2排出量を1990年比で6割削減する英政府の目標は「早期に対策を取れば、負担可能なコストで達成できる」と指摘した(しんぶん赤旗07年12/18付け)。

このような政府・企業の姿勢の差はどかから出てくるのだろうか

NGO「第3世代環境主義」気候・エネルギー安全保障担当理事のJ・モーガン氏は朝日新聞のインタビューで
(聞き手)欧州では企業に排出枠を設定し、過不足分を売買する排出量取引制度(キャップ・アンド・トレード)を構築した際には、NGOが様々な提案をしたと聞きました。
「・・・まずこの制度に興味を持つ企業と一緒に動き始めた。政治家は当初、その重要性に気づいていなかったが、NGOが説得した。国民にその良さを理解してもらう活動にも力を入れ、政治家らと一緒に詳しい報告書を出すこともできた。こうした努力の結果、一般の企業も、その報告書が信頼できるものと認めてくれた。・・・NGOが政治的な意思を形成し、連帯感を作り出したのだ。」
という(朝日07年12/24付け)。なぜ日本のNGOにこれだけの影響力がないのだろう、と考えてしまうが、たとえば投資活動においてもこうした差は現れている。
投資の際に環境や人権などを考慮するSRIファンド(社会的責任投資)やエコファンドの市場規模は米国250兆円、欧州155兆円にたいして日本1兆円と桁が違う。日本ではまだ個人投資家が中心なのに対し、欧米では保険会社や年金基金など機関投資家の資金が動く。背景には市民の声があるという。国際NGO「熱帯林行動ネットワーク」は世界の金融大手に対し、温暖化を助長する石炭発電などへの「破壊的投資をやめろ」キャンペーンを展開。シティグループに融資での環境方針を作らせた(朝日07年12/2付け)。
企業が環境のことを考慮せざるを得ないような大きな圧力が市民からかけれられているのだ。日本の企業にはこのような姿勢の変化が期待できるだろうか。
国連環境計画金融イニシアチブ特別顧問の末吉竹二郎氏は、経団連が「規制は企業の自主性と国際競争力を損ない、官僚統制を招く」と反発していることについて、
公害の激しかった頃、裁判で企業は敗訴し、国は厳しい規制措置をとった。産業界は銀行から巨額の融資を受けて設備投資をし、技術革新を進めて国際競争力を高めた。この歴史的事実に目を背けているとしか思えない。経団連は自主行動計画でやると言っている。しかし世界の流れで規制的手段が入るのは目前だ。経団連の言うとおりにやったがうまくいかず新たな規制に従うことになったとき、投資から過去の責任を追及されるのではないか
という(朝日07年12/17付け、強調は引用者)。

英政府の諮問で報告「気候変動の経済影響」をまとめた、元世銀エコノミストでロンドン大学経済政治学院教授のN・スターン氏はこの報告書で、温暖化を放置すれば損失は世界の国内総生産(GDP)の20%に登る恐れもあるが、GDP1%のコストでそれを防げるとしているが、同じシリーズのインタビューに答え、
1%のコストは経済成長の障害にはならない。・・・この程度のコストは経済全体が吸収できるものだ
と楽観的な見通しを述べ、
日本は、他の先進諸国と同じように排出量は大きけれども、エネルギー効率の良さという点では先進諸国の中でも際だっている。この点で日本にはリーダーシップを取る資格があると思う。
とも言っている。

アメリカ企業の最近の変化にも、このままでは技術においても欧州に先を越されかねないという判断があるように思われる。また、日本国内で対策が進まない場合、海外からの排出枠を購入するための国民負担は最大1兆2千億円に上ると言われている。これらの現実を個別企業はともかく経団連などには理解できないはずはない。要は企業、政府に環境問題に積極的な行動を取らせるよう、市民、政党が圧力を加えることだ。日本は公害反対運動では政府・企業を動かす力を発揮してきた歴史がある。また、冒頭にも書いたように、今企業も消費者の環境への関心の増大を気にしており、そのことは可能だと思う。

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沖縄戦での集団自決軍強制 検定意見は撤回すべき

文部科学省は、教科書会社六社から出ていた訂正申請を承認したが、「軍の強制」を削除させた検定意見に固執し、撤回しなかった。
渡海文科相は沖縄での県民大会の直後、「訂正申請があれば真摯(しんし)に対応する」と表明。11月に各社から申請が出されたことを受けて、文科省の諮問機関、教科用図書検定調査審議会(検定審)に検討を要請。検定審日本史小委員会は25日に訂正申請を承認する報告をまとめた(12/27朝日記事を整理)。
(報告要旨)
集団自決に関しては従来、日本軍の隊長が住民に自決命令を下したことが通説として扱われてきた。近年研究者の著書等で隊長命令の存在は必ずしも明らかでないとするものも出ており、これを否定する著書が見られないことから、軍命令の有無が明らかでないという見解が定着しつつあると判断された。
すべての集団自決が軍の命令で行われたと誤解される恐れがある記述について検定意見を付することとした。軍の命令の有無について断定的な記述を避けるのが適当だと判断したもので、集団自決に関する軍の関与に言及した記述を否定する趣旨ではない。
訂正申請の正確性や妥当性を判断するため、専門家の意見もふまえ小委員会としての基本的とらえ方を整理した。
(1)集団自決が起きた状況をつくった要因として、軍の関与は主要なもの
(2)軍命令で行われたことを示す根拠は確認できていない
(3)住民側から見れば、自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる
発行者には、訂正記述の趣旨の確認を求め、資料の提出を随時求めた。また、記述の趣旨の確認、疑義がある点について説明を求めた。この過程で、5社7冊について申請の取り下げがあり、訂正文の理由の修正を行った上で、再度申請された。
小委員会はこれらを審議し、いずれも承認すべきだとの意見案をとりまとめた。
沖縄での県民大会を受けて問題が起こったかのような雰囲気があり、教科書の内容に政治が介入することがどうなのか、と言われているが、この問題はの発端は、あくまでも今年の教科書検定において突然、沖縄戦での集団自決で軍の強制があったという記述に検定意見が付いたことにある。であるからなぜ定説を覆して検定意見が付いたのかということがもっと問題になっていいはずなのだ。そのことに配慮してか、報告書ではこの経緯を説明している。しかしここでは「軍の強制」があったかどうかということを「隊長の命令」の有無に矮小化しているように思われる。またここでの研究者の著書等が大江健三郎の「沖縄ノート」をめぐる名誉毀損裁判関連のことなどを指しているとすれば、この裁判は継続中であり、軍命令の有無が明らかでないという見解が定着しつつあるという判断すらも無理があると言うべきだ。
当初文科相は検定の過程では審議会にはかったので客観的なものだと言っていたが、実際には文科省の調査官が案を作成し、沖縄戦の専門家もいない審議会に形だけはかったということが国会審議でも明らかになった(私の別サイトで書いたが、案を作成した調査官が「新しい教科書をつくる会」などの”靖国派”だったこともわかり、今年突然検定意見がついたのが彼らの運動に沿ったものということも言われている)。そこで文科省もまともな審議をしていることを示さざるをえなくなり、今回の報告書では9人の専門家に意見を聞き、その内容も公開された(以下朝日新聞から。強調は引用者)。
  • 大城将保氏(沖縄県氏編集委員=沖縄戦研究) 「戦闘能力のないものは捕虜になる前に自決(玉砕)せよ」という方針は全軍的な作戦方針に基づく。避難民は、手榴弾や爆薬が支給された時点で「軍の自決命令」と受け止めるように心の準備がされていた。沖縄戦をまともに調査・研究している研究者やジャーナリストで「命令・強制・誘導等の軍の関与はなかった」と断言できるものは私の知る限り一人もいない。

  • 我部政男氏(山梨学院大教授=日本近代史) 明確なことは、「集団自決の起こった歴史的な事実の背景に「軍官民一体化」論理が存在していたこと。戦時におけるこの国民意識の存在の意義から「集団自決」の発生を考えることが、ごく自然なように思われる。「軍命令」は「軍官民一体化」論理の範疇に入るものだと考える。

  • 高良倉吉氏(琉球大教授=琉球史) 背景として重視すべき点の一つは、目前の住民=国民の生死よりも作戦遂行を至上とした日本軍側の論理だ。日本軍側の論理や特質を抜きに「集団自決」事件を説明することは不可能であり、そのことを特筆としつつ歴史としての沖縄戦を提示することが求められている。

  • 秦郁彦氏(現代史家=日本近現代史) 命令は発令、受令者名、日付、番号を記した文書によるのが原則であり、正規の戦隊長命令が出ることはあり得ない。軍命説が成り立たぬ理由としては、自決の「強制」は物理的に不可能に近いこと、自決者は全島民の3割に及ばず多数が生きのびたこと、攻撃用手榴弾の交付は集団自決との因果関係はないことなどがある。

  • 林博史(関東学院大教授=日本近現代史)米軍に捕らえられると残酷な扱いを受けて殺されるという恐怖心の扇動、多くの将兵が予め手榴弾を配って自決せよと言い渡していたことなど、軍は様々な方法で「集団自決」を強制していった。部隊長が直接命令したかどうかという論点から強制と誘導を否定することはできない。

  • 原剛氏(防衛研究所戦史部客員研究員=軍事史) 渡嘉敷、座間味の集団自決は軍の強制と誘導によるとは言えない。「捕らえられて殺害されるか辱めを受けるよりも死を選ぶ」風潮が強かったこと、「捕虜になるのは恥ずかしいこと」という観念があったことが原因と考える。ただし、このような事態に追い込まれたのは、政治・教育・社会風潮・戦争などから醸し出されたものだといえよう。

  • 外間守善氏(沖縄学研究所所長=沖縄史) ①日本本土の一億日本人のため沖縄島は防波堤として使われた。②軍の存在は住民にとって脅威で、軍隊という組織と秩序は沖縄島を守り住民を守るためと理解されていたが、戦闘に入った瞬間、島民は逃げ場を失って右往左往した。集団自決の問題も①②の問題に通底している。

  • 山室建徳氏(帝京大講師=日本近現代史) 前後の状況を見ずに、一部の日本軍が住民に自決を強要したとだけ記述するのは、それが事実だったとしても、適切な歴史叙述とは言い難い。少なくとも日本軍将兵の「集団自決」や特別攻撃も合わせて記述すべきだろう。ともに、日本人の戦死観を考える上で、欠くことのできない要因だからだ。

  • 匿名希望の軍事史家(要旨を文科省が発表) 沖縄戦は、日本国土が戦場となった希有の例であり、住民が戦闘に巻き込まれた。集団自決の起こった原因・背景としては、敵から逃げることができず、投降すべきではないという集団心理が働き、軍人に要求される規範が住民に心理的強制として作用したことがある。
さすがに専門家の発言なので勉強になる。文科相が選んだ専門家なので、おそらく”かたよりなく”選択されているのだろう。秦氏は典型的に軍命に矮小化しているように感じられる。それにしても島民の3割近くが自決したとは大変なことだと教えられた。人によってニュアンスは異なるものの、支配的なのは軍の強制を肯定している考え方のように思える。とりわけ、多くの専門家が”軍の強制”をどうとらえるかということで意見を述べているのが注目される。審議会がこれらの意見から、3つの「基本的考え方」にまとめているはずなのだが、隊長命令と強制とを使い分けることで無理矢理”検定意見は撤回しない”という結論に持っていっている観が免れない。せっかく専門家の意見を聞いたのだから、軍の強制をどうとらえるかについても専門家の意見に従えばよいのだ。
文科省の審議の枠組みから考えても、沖縄戦集団自決への軍強制の記述に今年いきなり検定意見がついたことは説明できず、検定意見は撤回すべきで、当初の執筆者の記述の復活こそ行われるべきだ。

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「9.11の謎」と「陰謀論の罠」

911_2 Photo_2 鳴澤宗男氏の「9.11の謎」と奥菜秀次氏の「陰謀論の罠」を読んだ。
9.11陰謀説は以前からあったが、なぜ読もうかと思ったかというと、私の周りで9.11陰謀説を信じたり影響を受けている人が多いことに気づいたからだ。それも平和運動や労働組合などをやっている人たちなので、なぜそんなことになっているのだろう、と不思議に思っていた。ネットなどで調べてみるとイラク戦争反対の運動で名前は知っていたきくちゆみさんなどが陰謀説を広める運動をしていることがわかった。そんなときに「陰謀論の罠」という本がでていることを知り、どうせならと「9.11の謎」のほうも読んでみようと思ったのだ。フルフォードという人が別に「暴かれた9.11疑惑の真相」というのを書いているようだが、薄い方の本を選んだのは、あまり長い時間関わりたくないと思ったからだ。実際今日も「陰謀論」に関するブログを読んでいるといつの間にか何時間も経っていた。こんな事にそんなに関わっていられるか!というのが実際、私が最後に達した結論でもある。

さて、9.11陰謀説というのは2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した同時多発テロ事件がアメリカの自作自演であるとするもので、そのほかに自作自演とまでは言えないがアメリカがわかっていて防ごうとしなかったというのもあるようだ。「9.11の謎」を読むと、世界貿易センター(WTC)ビルが航空機の突入を受けて崩壊してゆく様子が、航空機の衝突による衝撃では説明できないこと、当時ビルにいた人が航空機に突入前に下の方からの爆発音を聞いていたという証言があることなど、ペンタゴンやペンシルバニア州の村に落ちた航空機についても当局が説明していることには矛盾が多いことなどが例証されている。一方「陰謀論の罠」はこちらのほうが後に書かれたこともあり、それらについて、崩壊するビルは航空機の追突によるものとして説明できる、爆発音の証言はあとから否定されているなど、基本的に反論されている。それらすべてを紹介、評価することはできないが、両者を呼んでいくつか感じたことを挙げてみる。
  • 陰謀説の最も印象的なのは、航空機の衝突とジェット燃料の発火による建物のへのダメージは全壊に至らせるには不十分だ、という議論だろう。「陰謀論の罠」ではこれが可能だという。この議論について両者を読んでもどちらのほうが正しいとは判断できない。しかしDVD映像を見せてきくちゆみさんなどがこのことを説明するとかなり説得力をもってしまっているようだ(聞いた人の感想)。重要なのは反論もあるという事実を知っていることだろう。
  • ビルにつっこんだのはボーイングではない、などの映像を用いての陰謀説は、「陰謀論の罠」によりかなり反論されてしまっているようだ。
  • WTC7ビルは航空機の衝突なしに崩壊した。このことは陰謀説で爆破された証拠だと強調されている。これについても「陰謀論の罠」は反論しているのだが、私にはいまいち弱いような気がする。
  • そのほかのいろいろな議論についてもはっきり言って、あった、ない。言った、言わない、の話になってしまう。これらのそれぞれについて、自分で判断するための材料を集めるのはごめんこうむりたい。
それでは9.11陰謀説については私のような者には判断不能という事になるのか?そうは思わない。自然界の「超常現象」について、私が培ってきた自然観に基づいて”超自然的な力がはたらいた”などの見方に対して「そんなことはない」と言いうるように、社会事象についても私の考えを持つことができる。 それでは”状況証拠”を考えてみよう。

アメリカは9.11テロを自作自演で行う動機があるか。それはあると言うべきだろう。9.11後の世界は大きく変わった。アメリカは国連の合意も取り付けてアフガン戦争を起こし、イラクにも自分の気に入る政権を作ろうと戦争を仕掛けた。イラク戦争の始めるときの強引さを振り返れば、いかにアメリカが中東に軍事的影響力を広げたかったかが理解できる。中東に戦争を開始するために9.11テロを自作自演するという動機はなくはない。

それでは「9.11陰謀論」をねつ造する動機はあるか。これについて奥菜氏は「9.11テロの背後にいたのがアラブ系テロリストであり、その後政治潮流が反アラブ=親イスラエル」と流れたことで、元ホロコースト否定論者らたちが怒ったことは容易に想像できるだろう」と言っているが、こちらも一理あると言える。

次にアメリカが9.11テロを自作自演することはあり得ることかを考えてみる。
そのためにはアメリカはどのような国かを考えてみなければならない。
奥菜氏は「陰謀論の罠」の後半で世の中の陰謀論について論じている。このなかでベトナム戦争でのトンキン湾事件について、「アメリカの意図せざるでっち上げ」だったとし、アメリカの情報活動の無能力さを論じている。はたして「意図せざる」だったのか、情報機関はそんな無能力なのかと疑問を持ったが、アメリカはたとえばチリにおいても選挙ではじめて社会主義政権が誕生したとき軍隊を派遣し、クーデターを側面から支えたことがあった。アフガニスタンではソ連に対抗するためにビンラディンを支援したし、イランとの対抗上イラクを支援していたこともある。太平洋戦争末期に日本に落とした原爆にしても、ソ連の参戦期日を前にして、原爆投下によって日本が降伏したという形を作り、戦後対ソの力関係で優位に立ちたかったという有力な説もある(西島有厚「原爆はなぜとうかされたか」など)。ようするに、現代のアメリカが、自分の国(の支配層)の利益のためにテロリストを支援したり、他国に多くの犠牲を強いたりということを起こしうる国であることは間違いない。
それでは中東で戦争を起こすために、WTCを爆破することも辞さない国だろうか。私はそうは思わない
WTCでは3000人もの自国民を主としたエリート社員が犠牲になったが、そのような犠牲を生む仕掛けを作る必然性があったとは思えない。自作自演がばれることがあれば、政府がつぶれるくらいではすまないというのが、現代アメリカという国の民主主義の到達点でもある。とはいっても、それだけの必要性があり、仕掛けを作って失敗せずに実行することが可能であれば、全くあり得ないとは言えないだろう。
ここで、このことと関係するもう一つの要因は、陰謀論が書いているようなビルを爆破するための仕掛けの困難さである。奥菜氏は制御解体会社の社長の証言として「WTCビルを破壊するなら、・・・75人編成のチームで2ヶ月間自由にビルに出入り」する必要があるということを挙げているが、ビル破壊に限らず、このような大規模な仕掛けをつくり、失敗無しに実行することが可能とは思えない。
だいたいこのような理由で、私は9.11陰謀説を非常に可能性の低いことと考えている。
ただし、奥菜氏の陰謀論全般を否定する考え方など、同意できない点も多かった。

ここでもう一つ言いたいことは、平和運動などでこのような説がまかり通ることの否定的な面についてだ。
アメリカもイラクでは戦争を起こしたが、東アジアでは北朝鮮との外交交渉によって核拡散を防止しようとしている。平和運動においては世論で戦争勢力を包囲していくことが基本であるはずだ。そこには戦争勢力は世論で包囲しうるという思想がある。イラク戦争反対の世界的な運動はアメリカの戦争を思いとどまらせるまでもう一歩のところまでいっていた。そういうときに”アメリカは戦争を起こすためには自作自演テロで自国民を犠牲にすることも平気だ”という考えは、運動にも否定的な影響を与えるような気がしてならない。

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ジョンレノンの命日に官僚・政治家の想像力を考える

12/8日は日本が太平洋戦争を開始した日であり、ジョンレノンの命日でもある。
先日テレビにオノ・ヨーコさんが出演し、ベトナム戦争当時に世界の多くの都市の目立つところにWAR IS OVERという文字を広告として大きく掲示し、戦争反対をアピールした話などが紹介されていた。
Happy Xmas(War is over, if you want it)という歌はクリスマスが近づいていろいろなところで流れてもいる。「戦争は終わった。あなたがそう望むなら」というのは観念的なようだが、戦争がつづく現実に埋没してしまっている人びとへの批判になっている。
この歌が流れるとイラク戦争反対のパレードのなかで演奏しようと考えて必死になって楽譜を書き、結局実現できなかったときのことを思い出す。でもイマジンは演奏した。
イマジンの歌詞は有名だが、知らない人のために日本語訳を。
想像してごらん 天国なんて存在しないと
想像しようとすれば簡単だよ
僕達の下に地獄なんて無いんだ
ふり仰げば空があるだけさ
想像してごらんすべての人々が
現在を生きているんだと…

想像してごらん 国境なんて存在しないと
そう思うのは難しいことじゃない
殺す理由も、死ぬ理由もない
宗教なんてものも存在しない
想像してごらん すべての人々が
平和のうちに暮らしていると…

僕のことを単なる夢想家だと思うかもしれない
でも、僕ひとりだけじゃないんだ
いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
そうすれば 世界はひとつになるだろう

想像してごらん 所有なんて存在しないと
君にもそういう考えができるかしら
貧困になったり飢えたりする必要はない
兄弟同志なのだから
想像してごらん すべての人々が
この世界を分かち合っているのだと…

僕のことを単なる夢想家だと思うかもしれない
でも 僕ひとりだけじゃないんだ
いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
そうすれば、この世界はひとつになって動くだろう
最近官僚や政治家にも想像力が重要だと思うことが多い。
障害者自立支援法にサービスを利用するほど重い自己負担を強いる応益負担の仕組みが導入された。しんぶん赤旗の12/6日付けに障害者団体などの応益負担撤廃を要求する集会の記事があり、
自立支援法が逆に障害者の自立を阻害していることは、「(同法施行後)施設から退所した障害者が2006人。利用抑制など含め4658人に何らかの影響が出ているとする国の調査からも明らかだ」、「目の見えない私たちが移動するにはガイドさんが一番安心です。でも、この移動支援を利用すれば1時間歩くのに、自己負担が285円。健常者は歩いてお金取られますか。歩くだけでお金を取られるのは納得できない。
と参加者の声を紹介している。この障害者の根源的な要求の意味を厚労省の役人や自民・公明政権の政治家はよく考えてみてほしい。

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«噴出する矛盾の根底に「構造改革」路線