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「純情きらり」とセカチュウ

NHKの朝ドラ「純情きらり」が今日で最終回だった。現在フリーランスの私はほぼ毎回見ていて、結構朝から泣かされることが多かった。最終回での主人公の死は「まさか」、あるいは「やっぱり」というところだが、なぜかさわやかな後味だった。若い死であっても、ひたむきに生きたその生が、残された人びとのなかに生き続けるということが素直に伝わってきた。

一方セカチューはしばらく前に大ヒットした「世界の中心で、愛をさけぶ」。原作から映画、ドラマにもなり、1つの市場を作っていたとさえいえる。こちらのほうは平凡な人間の人生がある日突然迫ってくる「死」に直面して変わっていく。それが周りの人を巻き込んでドラマが作られていく。いわば死によって条件付けられた物語と言って良いと思う。そういう意味では「僕の生きる道」というテレビドラマなども同じ部類に入るが、これらもいわば「死」がテーマになっているのだと思う。

別のサイトでも書いたのだが、

恋人の死などをストーリーのなかに配置すると、そこから自ずから決まってきてしまう要素があり、泣かせどころなどももってきやすいということがあるのではないか。そこでは「人の死」が一つの装置になっている。

これらのドラマでは「死」に直面したときに見せる人間のありかたの個性を描いているものの、「死」がテーマになっていることは否めないと思う。あえて言えば、現在の日本でこのようなテーマのドラマが多くなっているとしたら、それは「生」の内容がそれだけ薄くなっていることの表れではないか、と思えるのである。
さて、「純情きらり」にもどる。
「純情きらり」において主人公の死は必然的だったのだろうが、死ななかったとしてもドラマとして成り立っていたようにも思われる(矛盾している言い方だが)。脚本の浅野 妙子さんはどこかで「平凡な1人の女性の人生として描きたかった」というようなことを言っておられたが、その死も若い死とはいえ特別なものではなく、最終回の死によって、主人公の人生が客観的に見つめられるようになっている、という気がする。

(表題とはずれてきてしまうのだが・・・)

当たり前のようだが、人の死は特別なものでない死であったらよいと思う。そんなことはそれこそ運命として決まってしまうのだが、死によって条件づけられた生よりも、生の延長としての死であればいい、と思う。
それは特別な時代、戦争の時代であっては許されないことのようでもあるが、靖国神社に祀られた人の死はいやがおうにも、死に条件づけられた生というものを全面にださせてしまう。彼らの人生においても生の延長としての死はあったにちがいないのだ。

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