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2006年11月

世界バレーの応援ってあれでいいのか

”世界バレー”が日本で開催中だ。
必死のプレーにや逆転勝利など、感動するのだが、そういう気持ちを萎えさせるのが応援の仕方だ。
バットの小さいのみたいなものを2つ持って合図に合わせてみんなで打ち鳴らす。 合図がないとそろわないから必要なんだろうが明らかにマイクを通して合図をかけている。 実況中継のマイクにどのくらい入っているのかわからないが、おそらくものすごい大きな音になっているのだろう。 相手チームにとってはアウェイということになるが、いくらなんでもこれではフェアではないという気がする。
私が特に不愉快に思うのは、会場の多数を占める中・高生にたいしてそうした応援をさせている主催者側(あるいは応援団)の大人にたいしてだ。日本のスポーツ応援はとかく自国の得点などにたいしてのみ拍手を送り、優れたプレー、フェアな態度に対する拍手が少ないと言われる。この世界バレーの応援においては国を超えていいプレーに拍手を送るということはできようがない。そしてこのような応援をすることに何の疑問も持たない子供にさせているのが主催者または応援団なのだ。このような情景に、私は学級などにおけるいじめとの共通性を感じる。違った行動をすることを許さない、それが当たり前という雰囲気を増長しているように感じられる。
逆にこうした応援をやめさせ、良いプレーには拍手をしようなどとアナウンスをするのは教育的でよいのではなどと考えてみたが、それも押しつけではよくないのだろう。しかしいじめ自殺などが絶えない今、"おとなの教育力"をどう発揮させるかということはよくよく考えてみる必要があると思う。

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アド・バードとグーグル

408748592709_aa200_sclzzzzzzz_ アド・バードというのは椎名誠のSF小説である。1987~89年「すばる」に連載されていたらしい。以前に文庫版で購入したものの長編なのでなかなか読み始められず、今年になってようやく読むことができた。物語は未来社会に地球が2つの広告勢力(あるいは産業勢力)の争いで荒廃し、その中で生き残った人類が肉親を求めて旅をしていくというものである。
一方、最近文春新書の「グーグル google 既存のビジネスを破壊する」(佐々木俊尚著)という本を読んでいて、そのなかでgoogleがあらゆる(ネット)社会生活を広告の対象としようとしており、その技術的手段がアドワーズとアドセンスだと書いていたことから、アド・バードとの類似性を考えたのだった。
アド・バードとアドワーズ、アドセンスとは言葉だけでも非常に似通っているのだが、アド・バードのあとがきを読むと、アド・バードというのは<アドバタイジング・バード>のことで、アドバタイジングとは<広告>の意味とわかればこの類似には合点がゆく。
しかし類似はそれだけはない。アド・バードの小説世界が2つの広告勢力があらゆる空間を広告の対象として地球を覆い尽くしてゆくというものだから、これはまさにgoogleがやっていることとつながってくるのだ。もともと椎名誠氏は流通業界専門誌の編集長をしていたことがあり、広告業界にたいしては普通の人間よりも意識が高かったのだろう。しかし最近のインターネット社会を見ていると椎名誠氏の先見性というものを感じてしまう。

行ったり来たりになるが、佐々木氏の本では、googleが世界中のサイトの集積から人々の関心・欲求を分析し、「ページランクテクノロジー」によって格付けしたサイトを検索結果に表示して検索エンジンとしての圧倒的信頼を得、そこに「アドワーズ」という広告を貼り付ける、また多数の名もないサイトにその話題に合った広告を貼る着けることによってサイト作成者に利益を分配するという「アドセンス」を投入する、それらによって莫大な利益を上げてきたことを紹介する。さらにgoogleがねらっているのは無料メーラ、無料無線LANなどによって個人の趣向・利益と地域情報などを取り込み、新聞の折り込み広告のような機能まで持つことだという。
そうなってくると、人々の生活は確かに便利になるだろうが、そこでネットワークの供給者が得る情報は莫大なものになり、自分の欲望に従って生きているようで、欲望を支配されているような状態になるのではないか、という不安も生じてくる。このへんのところは今読んでいる森健氏の「インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?」という本にも書かれているので、そのうち紹介しようと思っている。

さて、再びアド・バードなのだが、この物語に出てくる純粋な人間はわずか十数人というところであとの生物はすべてアンドロイドということになっている。そしてすべてのアンドロイドは2つの広告勢力のいずれかに属している。ところが読み終わったときになぜか人類としての主人公だけでなく、アンドロイドにも愛着がわいてきていて、もう彼らの物語が読めないことが寂しいという感情に行き着いたものだった。それは彼らがいずれかの広告勢力に属していて、基本的にはそれらの命令で動いているのに、そこからはずれてにじみ出してくるような"人間臭"があって、それが魅力を醸し出しているからなのではないかと思う。だとすれば椎名氏は、次第に高度に人間全体を覆ってくるITとビジネスの渦の中から、それを意識してそこから飛び立とうとする意志をもった"鳥"がでてくることを描きたかったのではないか。そういう意味合いでもこの小説は「先見性」があると思ったのだ。

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