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秩父困民党の地を訪ねた

このブログの第1回目は秩父困民党が信州に逃れ、最後にたどり着いた地を訪問したときの記事だった。9月のはじめのまだ暑い週末に秩父事件の中心地を訪ねることができた。神奈川県学習協会主催の"資本論講座"の修学旅行として取り組まれたもので、現地では秩父事件の研究者である篠田健一さんに案内をしていただいた。秩父事件については何冊か本を読み、”草の乱”という映画も見ていたのである程度の知識を持っていたつもりだったが、現地に行ってみると当然のことながら、地理的な実感が得られ、120年前の熱いたたかいに思いをはせることができた。

行ってみると、秩父事件のたたかいが作られていった中心地は秩父の田舎のほうである。そこから”革命本部”が作られた秩父の中心地は、山がちの周辺地から遠く町を望むような場所になる。当時、自由民権運動が困窮した農民と結びつき、農民の生きる場所でたたかいの組織が作られていったことがわかる。


たたかいに決起した椋神社

秩父事件は10日間のたたかいの後、憲兵隊の出動により鎮圧されてしまうのだが、それから後は農民への徹底的な捜査が入り、地域でも”暴徒”として扱われたため、秩父事件の研究者は、地域での聞き込みをするにあたっても、まず”暴徒観”をぬぐい去ることから始めなければならなかったという。

秩父困民党軍は厳しい5箇条の軍律を定めた。
第1条 私に金円を略奪するものは斬
第2条 女色を犯すものは斬
第3条 酒宴をなしたるものは斬
第4条 私の遺恨を以て放火其の他乱暴を為したる者は斬
第5条 指揮官の命令に違背し私にことを為したる者は斬
これらのうち、第3条をのぞいては守られたという。 このような高いモラルは第2次大戦等での日本軍の行動と対照的だが、単に高利貸しの横暴に耐えられずに起こしたものではなく、”圧政を変じて良政をめざす”という高い目標と結びついていたことが可能にしたのだろう。

蜂起から数日で憲兵隊に追いつめられるが、さらに東京を目指すかどうかを決める会議では、 「大挙して迫らば、天下の事、必ず成るべしと信ずるなり、一任(よし)、不幸、敗るるあるも、義によって流せる血汐は、さらに第二、第三の同士を何所にか事を起こし得て、改革の必ず成るべき時を頼みとせるなり」という主張により侵攻を決定したという。今回の訪問でもっとも印象に残った。


事件の顕彰に一生を捧げた落合虎市の墓

秩父事件の後、はたして第二、第三の同士は出てきたのか、こなかったのか。でたとすればそれは誰で、どう引き継がれたのか。そうした問題意識を持ちながら帰ってきたのだった。

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