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2010年9月

戦後最大の謀略、松川事件をたずねる旅

戦後最大の謀略事件のあった松川をたずねる旅に行ってきた。
松川は東北本線の福島駅から3つめの駅で、いなかの小さな街だ。
この町で1949年、列車転覆事件が起こされ、3名の国鉄職員が殉職。その前に起きた下山事件、三鷹事件と同様に共産党、労働組合の仕業だ、と政府、マスコミが宣伝した。

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適当なサイトが見つからないので、松川運動記念会が発行したパンフレットからその背景を抜き出してみよう。

事件の背景
「事件が起きて誰が一番利益を受けるか」これが捜査の常識である。事件の翌日政府は、増田甲子七官房長官談話を発表した。「今回の事件は、いままでにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じものである」と。
犯人もまだわからぬうちに、現場から遠く離れた東京で官房長官が犯人を特定し、操作に指示をあたえるとは驚くべきことである。
★激動の1949年
前年暮れに決定された「経済安定九原則」による占領軍の日本経済全般にわたる指導は、アメリカの経済不況と、中国人民解放軍の北京入場によって確立された中国革命の勝利もあって、急速に強化されていった。 49年1月に行われた総選挙では、民主自由党は264名を当選させて議席の過半数を占め、共産党は一躍35名に躍進した。社会党は片山内閣の失敗から激減し41名に凋落した。その結果、国内では共産党と民主自由党の対立激化が明らかな情勢となってきた。
その上、「行政機関職員定員法」の強引な制定によって、公務員の首切りは26万7千名が予定され、民間産業関係でも20万名がリストに挙げられていた。この年の2月から12月までの間に43万5千名以上が首を切られ、最終的にはこの倍はあったであろうと言われている。
この首切りの嵐が吹きまくっている最中に、下山、三鷹、松川の三事件が起き、この連続した怪事件はいずれも首切り発表と結びついていた。国鉄首切り第1次発表(3万700人)が7月4日、その翌日下山定則国鉄総裁が行方不明となり、6日轢死体となって発見され、国鉄労組関係者が犯人ではないかと大きく宣伝された。
7月12日国鉄第二次首切り(6万2千人)が発表され、15日の夜三鷹駅構内で無人電車が突然暴走し、民家に突っ込んで多くの死傷者を出した。翌日、吉田首相は「共産党は虚偽とテロを常套手段として民衆の社会不安をあおっている。人員整理は国家再建の基礎である」との談話を発表した。
★朝鮮戦争の前夜
この2つのでっち上げ事件によって国鉄労組を中心とする官公庁関係の首切りはさしたる抵抗もなしに行われ、左派勢力は一掃された。
しかし、この大きな打撃の中から国鉄労組福島支部は徐々に戦闘力をもりかえし、たとえ職場から追い出されても、再び職場に戻る日を期して組合員の闘いの中心になろうと組合運動に全力をつくしていた。
福島県下には猪苗代湖を中心とする大発電所群があり、常磐炭田の石炭は距離的に有利な京浜地方や、国鉄および各産業のエネルギー源であり、東北6県と北海道へ通ずる関門として福島県は重要な位置を占めていた。この中心部に国鉄労働組合福島支部があり、電算、炭労のたたかう労働者がいたのである。
政府が官公労働者に加えて打撃の刃を民間産業にも向けたその瞬間、松川事件が起こされた。
東芝松川工場労組は、福島県下民間産業労組のなかでも戦闘力を持つ組合の一つであり、8月12日に32名の首切りが通告され、抗議の24時間ストライキを8月17日決行することを16日夜の臨時大会で決定した。
大会は午後8時半頃終了した。それから7時間たらずの後に、この松川事件が起こされたのである。
しかしこれらの事件の続発は、決して首切り政策のためのみではなかった。翌50年6月6日、日本共産党中央委員24名に公職追放の指令が出され、25日に朝鮮戦争が勃発している。極東情勢の激変のなかで起こされた政治的なフレームアップそのものだった。
即死した3名にいたましい犠牲者、そして乗客と国民与えたショックは大きく、この事件で最も利益を得たものが民衆の犠牲の上に立つ時の政府であり、その背後の巨大な権力者であることは明らかである(強調は引用者)。
松川駅からほどなく当時の東芝、今は”北芝電気"と変わった工場が見られた。

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事件から61年が経ち、当時20代の元被告も80代になっている。今回61年前に列車転覆事件が起こされた現場で、一度は死刑判決も受けて無実を勝ち取った、87歳で健在の阿部市次さんの話を聞くことができた。

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線路の継ぎ目がはずされ、線路がひんまげられることによって明らかに保線などに詳しいものによってしくまれたこと、それは戦前大陸で列車爆破事件を起こした人たちとつながっている可能性があること、自分たちがやった証拠として扱われたヴァールには”Y”という文字が彫ってあり、それはアメリカ占領軍のものである可能性が高いことなどを語られた。

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現場近くの記念塔に移動し、現地の国民救援会の方が、被告を守り、無罪を勝ち取るまでの運動を作る上での困難を語られた。

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松川の住民の中には、無罪を勝ち取った被告は補償ももらったが、転覆で殉職した3人は何の補償もないこと、いまだに住民の中には事故が共産党や労働組合によっておこされたと思っている人もいる、子供たちに”共産党、労働組合によって悲惨な事故がおこされた”と伝えられるのか”国家権力による謀略で悲惨な事故が起こされて共産党や労働組合の弾圧に利用された”と伝えられるのか、せめぎあいの状況が続いているのだ、という話は印象的だった。

福島大学にある松川事件資料室を訪問し、資料整理を続けておられる伊部氏から話をお聞きすることができた。

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全国で行われたきた支援組織の膨大な記録があった。新犯人の像はかなり明確になっているが突き止められてはいないこと、人脈としては戦時中に最先端で謀略活動をやっていた人たちが戦後すぐにアメリカに寝返り、占領軍の意図を受けて暗躍していたと考えられていることなどを語ってくれた。福島大学名誉教授という肩書きを感じさせない気さくな方で、かえってその秘められた情熱が想像された。

裁判は2審まで死刑を含む有罪判決、最高裁で差し戻され、高裁で再び検察が最上告、1963年に最高裁が上告棄却し、全員の無罪が確定した。でっち上げが明確になったにもかかわらずこのように悪あがきをしたのは、裁判を長引かせることにより、真犯人追及をさせないためだったと考えられている。
被告は国家権力の責任を追及するために国家賠償裁判を起こした。
この法定では数々の権力犯罪が暴かれた。
検察当局の最高責任者・安西検事正は、「あなたは被告の無実を知りながら死刑を求刑した、どう弁解するのか」と迫られ、まともに答弁することができなかったという。
一審は被告国の違法行為を断罪し、賠償を命じた。被告国は控訴したが棄却され、1970年被告国の上告断念で松川事件のすべての裁判は完全勝利で終了した。
この国家賠償の裁判の過程で、無罪になったものが国を相手に賠償を求め、権力犯罪を立証し、完全に勝利する先例を開いた。

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今回の学習旅行で最も印象に残ったのは、孤立無援だった被告が団結を強め、家族会を作り、思想信条を超えた全国的支援運動がまきおこり、裁判所さえも動かして勝利を勝ち取っていったことだ。このような誇るべき闘いを先輩たちが作っていたことを学び、伝えていかなければならないと強く思った。

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