映画・テレビ

「感情増幅の時代」のテレビの恐さ

2、3日前、何気なくテレビをつけたら、めがねをかけた細身のアナウンサーが目に涙をため、いじめで中2のこどもが自殺したことについてしゃべっていて、「まったく戦後の教育は壊れてますよね、このまえも渡辺美樹さんとはなしていたんですが・・・」といい、どうやらその話を教育再生会議への期待へともっていくふうであった。お昼のワイドショーであったようで、スタジオには女性客が多く参加していて、その雰囲気にのまれているようだった。

教育再生会議といえば最近安倍内閣のもとで作られたもので、いろいろな人が参加しているようではあるが、基本的には本内閣が最重要課題とする教育改革を推進するためのものである。今の教育が多くの問題を抱えているのはたしかだが、それらの問題を教育基本法「改正」、さらなる競争、市場原理の導入などで解決できるのか、していくべきなのかは大いに議論のあるべきところだ。私自身は教育を巡る問題を「戦後の教育が悪かった」という方向に持って行くところに現在の教育論議の危険性があると思っている。

しかしここで問題にしたいのは先のアナウンサーの激高ぶりなのである。
新聞はあくまでも論理で語るものであり記事を掘り下げることができ、インターネットは匿名性を利用して新聞では書けないようなことを流すこともでき、また速報性は抜群だ。それに対して、テレビはスピード感のある映像をいくつも流したり、表情、涙などの表現によって他のメディアにはない表現力を伴った主張をすることができる点で際だっている。このことは実は自分で考えたというより、少し前になるが10/2の朝日新聞に写真家、作家である藤原新也氏が「群れなす感情増幅の時代」という表題で書いておられたことを思い出していたのである。
藤原氏は自分を取材した番組を後で見て、
私が現場でしゃべったことよりもっと良いことを話したように聞こえている・・・紙媒体とは異なるさまざまな増幅装置が機能しているからだ。
と述べ、今のテレビがテロップ、サブ画面のタレントの表情、インタビューアのリアクションなどによってそれらの「増幅効果」を高めていることを説明する。そして、
このTVメディアの送り出す情報や感情の増幅化現象はここ5、6年、エスカレートの一途をたどっているように思える。わたしは、それは視聴率競争のみならず、環境と身体の変質が背景にあるのではないかと思っている。その環境とは95年以降、「ネット」という新たな情報源が生まれたことに伴う情報の重層化と倍速化である。
と指摘している。

たしかに私なども見たいニュースがあるときにはニュースの時間を待つのではなくネットで調べるということが習慣になってきており、その一方テレビ報道には速報性ではないものを期待しているところがあるかもしれない。報道に限らずテレビはデジタル化などを契機にして、テレビでなければできないことを模索しているのかもしれない。

さて、そのような目で見てみると、確かに現在のテレビは数十分のボクシング中継の前に延々とボクサーの生涯などを流してみたり、同じシーンを何度も繰り返したりなど、そのどぎつい表現はエスカレートを極めている。冒頭で挙げたいじめ自殺報道なども、ただいわゆるワイドショー的にしゃべっていてもインパクトがないということで、より強烈な演出が要求されているのかもしれない。
しかしそのようにして感情を全面にだすことによって、要求される論理性が後景においやられたのではまさに"劇場政治"の思うつぼであり、たまらないなあ、と思う。

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「純情きらり」とセカチュウ

NHKの朝ドラ「純情きらり」が今日で最終回だった。現在フリーランスの私はほぼ毎回見ていて、結構朝から泣かされることが多かった。最終回での主人公の死は「まさか」、あるいは「やっぱり」というところだが、なぜかさわやかな後味だった。若い死であっても、ひたむきに生きたその生が、残された人びとのなかに生き続けるということが素直に伝わってきた。

一方セカチューはしばらく前に大ヒットした「世界の中心で、愛をさけぶ」。原作から映画、ドラマにもなり、1つの市場を作っていたとさえいえる。こちらのほうは平凡な人間の人生がある日突然迫ってくる「死」に直面して変わっていく。それが周りの人を巻き込んでドラマが作られていく。いわば死によって条件付けられた物語と言って良いと思う。そういう意味では「僕の生きる道」というテレビドラマなども同じ部類に入るが、これらもいわば「死」がテーマになっているのだと思う。

別のサイトでも書いたのだが、

恋人の死などをストーリーのなかに配置すると、そこから自ずから決まってきてしまう要素があり、泣かせどころなどももってきやすいということがあるのではないか。そこでは「人の死」が一つの装置になっている。

これらのドラマでは「死」に直面したときに見せる人間のありかたの個性を描いているものの、「死」がテーマになっていることは否めないと思う。あえて言えば、現在の日本でこのようなテーマのドラマが多くなっているとしたら、それは「生」の内容がそれだけ薄くなっていることの表れではないか、と思えるのである。
さて、「純情きらり」にもどる。
「純情きらり」において主人公の死は必然的だったのだろうが、死ななかったとしてもドラマとして成り立っていたようにも思われる(矛盾している言い方だが)。脚本の浅野 妙子さんはどこかで「平凡な1人の女性の人生として描きたかった」というようなことを言っておられたが、その死も若い死とはいえ特別なものではなく、最終回の死によって、主人公の人生が客観的に見つめられるようになっている、という気がする。

(表題とはずれてきてしまうのだが・・・)

当たり前のようだが、人の死は特別なものでない死であったらよいと思う。そんなことはそれこそ運命として決まってしまうのだが、死によって条件づけられた生よりも、生の延長としての死であればいい、と思う。
それは特別な時代、戦争の時代であっては許されないことのようでもあるが、靖国神社に祀られた人の死はいやがおうにも、死に条件づけられた生というものを全面にださせてしまう。彼らの人生においても生の延長としての死はあったにちがいないのだ。

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