戦争と平和

裁判官宮川光治の反対意見(判決文の一部)

裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。
本件は少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題であると思われる。憲法は個人の多様な思想及び生き方を尊重し,我が国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして,憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し,その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。このような視点で本件を検討すると,私は多数意見に同意することはできない。まず,1において私の反対意見の要諦を述べ,2以下においてそれを敷衍する。

1 国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は,私もその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に,自発的に行う行為であり,式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし,そうではない人々が我が国には相当数存在している。それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし,平和主義や国民主権とは相容れないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り,人格的アイデンティティをも形成し,思想及び良心として昇華されている。少数ではあっても,そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる。
上告人らが起立斉唱行為を拒否する前提として有している考えについては原審の適法に確定した事実関係の概要中において6点に要約されている。多数意見も,この考えは,「『日の丸』や『君が代』が過去の我が国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」としており,多数意見は上告人らが有している考えが思想及び良心の内容となっていること,ないしこれらと関連するものであることは承認しているものと思われる。
上告人らが起立斉唱しないのは,式典において「日の丸」や「君が代」に関わる自らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念を表明しようとする意図からではないであろう。その理由は,第1に,上告人らにとって「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する行為は,慣例上の儀礼的な所作ではなく,上告人ら自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を越える行動であり,上告人らの思想及び良心の核心を動揺させるからであると思われる。第2に,これまで人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者として,その魂というべき教育上の信念を否定することになると考えたからであると思われる。そのように真摯なものであれば,本件各職務命令に服することなく起立せず斉唱しないという行為は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるとみることができ,少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。
上告人らは東京都立高等学校の教職員であるところ,教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するということもあり得るであろう。その場合は,教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。しかし,それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては(式典もその一つであるといえる。),自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められるということはないというべきである。なお,音楽教師が式典において「君が代」斉唱のピアノ伴奏を求められる場合に関しても同様に考えることができる。
国旗及び国歌に関する法律の制定に関しては,国論は分かれていたが,政府の国会答弁では,国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないことが示されており,同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。しかしながら,本件通達は,校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問うとして,都立高等学校の教職員に対し,式典において指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求めており,その意図するところは,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制しようとすることにあるとみることができる。本件各職務命令はこうした本件通達に基づいている。
本件各職務命令は,直接には,上告人らに対し前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を持つことを禁止したり,これに反対する思想等を持つことを強制したりするものではないので,一見明白に憲法19条に違反するとはいえない。しかしながら,上告人らの不起立不斉唱という外部的行動は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるか,少なくともこれと密接に関連している可能性があるので,これを許容せず上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は憲法審査の対象となる。そして,上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図を持ってなされたものでない限りは,その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきであると思われる。本件は,原判決を破棄し差し戻すことを相当とする。

2 上告人らの主張の中心は,起立斉唱行為を強制されることは上告人らの有する歴史観ないし世界観及び教育上の信念を否定することと結び付いており,上告人らの思想及び良心を直接に侵害するものであるというにあると理解できるところ,多数意見は,式典において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではないとしている。多数意見は,式典における起立斉唱行為を,一般的,客観的な視点で,いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を,一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。なお,多数意見が指摘するとおり式典において国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であるが,少数者の人権の問題であるという視点からは,そのことは本件合憲性の判断にはいささかも関係しない。
前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する者でも,その内面における深さの程度は様々であろう。割り切って起立し斉唱する者もいるであろう。面従腹背する者もいるであろう。起立はするが,声を出して斉唱しないという者もいよう(なお,本件各職務命令では起立と斉唱は一体であり,これを分けて考える意味はない。不起立行為は視覚的に明瞭であるだけに,行為者にとっては内心の動揺は大きいとみることもできる。他方,職務命令を発する側にとっても斉唱よりもむしろ起立させることが重要であると考えているように思われる。)。しかし,思想及び良心として深く根付き,人格的アイデンティティそのものとなっており,深刻に悩んだ結果として,あるいは信念として,そのように行動することを潔しとしなかった場合,そういった人達の心情や行動を一般的ではないからとして,過小評価することは相当でないと思われる。

3 本件では,上告人らが抱いている歴史観ないし世界観及び教育上の信念が真摯なものであり,思想及び良心として昇華していると評価し得るものであるかについて,また,上告人らの不起立不斉唱行為が上告人らの思想及び良心の核心と少なくとも密接に関連する真摯なものであるかについて(不利益処分を受容する覚悟での行動であることを考えるとおおむね疑問はないと思われるが),本件各職務命令によって上告人らの内面において現実に生じた矛盾,葛藤,精神的苦痛等を踏まえ,まず,審査が行われる必要がある。
こうした真摯性に関する審査が肯定されれば,これを制約する本件各職務命令について,後述のとおりいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的に合憲性審査を行うこととなる。

4 平成11年8月に公布,施行された国旗及び国歌に関する法律は僅か2条の定義法にすぎないが,この制定に関しては,国論は分かれた。政府の国会答弁では,繰り返し,国旗の掲揚及び国歌の斉唱に関し義務付けを行うことは考えていないこと,学校行事の式典における不起立不斉唱の自由を否定するものではないこと,国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないこと等が示されており,同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。その限りにおいて,同法は,憲法と適合する。
これより先,平成11年3月告示の高等学校学習指導要領は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と規定しているが,この規定を高等学校の教職員に対し起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう。そもそも,学習指導要領は,教育の機会均等を確保し全国的に一定の水準を維持するという目的のための大綱的基準であり,教師による創造的かつ弾力的な教育や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分にあるものであって(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照),学習指導要領のこのような性格にも照らすと,上記根拠となるものではないことは明白であると思われる。
国旗及び国歌に関する法律施行後,東京都立高等学校において,少なからぬ学校の校長は内心の自由告知(内心の自由を保障し,起立斉唱するかしないかは各教職員の判断に委ねられる旨の告知)を行い,式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があったとしても支障なく進行していた。
こうした事態を,本件通達は一変させた。本件通達が何を企図したものかに関しては記録中の東京都関連の各会議議事録等の証拠によれば歴然としているように思われるが,原判決はこれを認定していない。しかし,原判決認定の事実によっても,都教委は教職員に起立斉唱させるために職務命令についてその出し方を含め細かな指示をしていること,内心の自由を説明しないことを求めていること,形から入り形に心を入れればよい,形式的であっても立てば一歩前進だなどと説明していること,不起立行為を把握するための方法等について入念な指導をしていること,不起立行為等があった場合,速やかに東京都人事部に電話で連絡するとともに事故報告書を提出することを求めていること等の事実が認められるのであり,卒業式等にはそれぞれ職員を派遣し式の状況を監視していることや,その後の戒告処分の状況をみると,本件通達は,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる。
本件通達は校長に対して発せられたものではあるが,本件各職務命令は本件通達に基づいているのであり,上告人らが,本件各職務命令が上告人らの有する前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念に対し否定的評価をしているものと受け止めるのは自然なことであると思われる。
本件各職務命令の合憲性の判断に当たっては,本件通達やこれに基づく本件各職務命令をめぐる諸事情を的確に把握することが不可欠であると考えられる。

5 本件各職務命令の合憲性の判断に関しては,いわゆる厳格な基準により,本件事案の内容に即して,具体的に,目的・手段・目的と手段との関係をそれぞれ審査することとなる。目的は真にやむを得ない利益であるか,手段は必要最小限度の制限であるか,関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。結局,具体的目的である「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」における「生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ること」が真にやむを得ない利益といい得るか,不起立不斉唱行為がその目的にとって実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白で,害悪が極めて重大であるか(式典が妨害され,運営上重大な支障をもたらすか)を検討することになる。その上で,本件各職務命令がそれを避けるために必要不可欠であるか,より制限的でない他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等,会場の外における役割を与え,不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することとなろう。

6 以上,原判決を破棄し,第1に前記3の真摯性,第2に前記5の本件各職務命令の憲法適合性に関し,改めて検討させるため,本件を原審に差し戻すことを相当とする。

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沖縄戦での集団自決軍強制 検定意見は撤回すべき

文部科学省は、教科書会社六社から出ていた訂正申請を承認したが、「軍の強制」を削除させた検定意見に固執し、撤回しなかった。
渡海文科相は沖縄での県民大会の直後、「訂正申請があれば真摯(しんし)に対応する」と表明。11月に各社から申請が出されたことを受けて、文科省の諮問機関、教科用図書検定調査審議会(検定審)に検討を要請。検定審日本史小委員会は25日に訂正申請を承認する報告をまとめた(12/27朝日記事を整理)。
(報告要旨)
集団自決に関しては従来、日本軍の隊長が住民に自決命令を下したことが通説として扱われてきた。近年研究者の著書等で隊長命令の存在は必ずしも明らかでないとするものも出ており、これを否定する著書が見られないことから、軍命令の有無が明らかでないという見解が定着しつつあると判断された。
すべての集団自決が軍の命令で行われたと誤解される恐れがある記述について検定意見を付することとした。軍の命令の有無について断定的な記述を避けるのが適当だと判断したもので、集団自決に関する軍の関与に言及した記述を否定する趣旨ではない。
訂正申請の正確性や妥当性を判断するため、専門家の意見もふまえ小委員会としての基本的とらえ方を整理した。
(1)集団自決が起きた状況をつくった要因として、軍の関与は主要なもの
(2)軍命令で行われたことを示す根拠は確認できていない
(3)住民側から見れば、自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる
発行者には、訂正記述の趣旨の確認を求め、資料の提出を随時求めた。また、記述の趣旨の確認、疑義がある点について説明を求めた。この過程で、5社7冊について申請の取り下げがあり、訂正文の理由の修正を行った上で、再度申請された。
小委員会はこれらを審議し、いずれも承認すべきだとの意見案をとりまとめた。
沖縄での県民大会を受けて問題が起こったかのような雰囲気があり、教科書の内容に政治が介入することがどうなのか、と言われているが、この問題はの発端は、あくまでも今年の教科書検定において突然、沖縄戦での集団自決で軍の強制があったという記述に検定意見が付いたことにある。であるからなぜ定説を覆して検定意見が付いたのかということがもっと問題になっていいはずなのだ。そのことに配慮してか、報告書ではこの経緯を説明している。しかしここでは「軍の強制」があったかどうかということを「隊長の命令」の有無に矮小化しているように思われる。またここでの研究者の著書等が大江健三郎の「沖縄ノート」をめぐる名誉毀損裁判関連のことなどを指しているとすれば、この裁判は継続中であり、軍命令の有無が明らかでないという見解が定着しつつあるという判断すらも無理があると言うべきだ。
当初文科相は検定の過程では審議会にはかったので客観的なものだと言っていたが、実際には文科省の調査官が案を作成し、沖縄戦の専門家もいない審議会に形だけはかったということが国会審議でも明らかになった(私の別サイトで書いたが、案を作成した調査官が「新しい教科書をつくる会」などの”靖国派”だったこともわかり、今年突然検定意見がついたのが彼らの運動に沿ったものということも言われている)。そこで文科省もまともな審議をしていることを示さざるをえなくなり、今回の報告書では9人の専門家に意見を聞き、その内容も公開された(以下朝日新聞から。強調は引用者)。
  • 大城将保氏(沖縄県氏編集委員=沖縄戦研究) 「戦闘能力のないものは捕虜になる前に自決(玉砕)せよ」という方針は全軍的な作戦方針に基づく。避難民は、手榴弾や爆薬が支給された時点で「軍の自決命令」と受け止めるように心の準備がされていた。沖縄戦をまともに調査・研究している研究者やジャーナリストで「命令・強制・誘導等の軍の関与はなかった」と断言できるものは私の知る限り一人もいない。

  • 我部政男氏(山梨学院大教授=日本近代史) 明確なことは、「集団自決の起こった歴史的な事実の背景に「軍官民一体化」論理が存在していたこと。戦時におけるこの国民意識の存在の意義から「集団自決」の発生を考えることが、ごく自然なように思われる。「軍命令」は「軍官民一体化」論理の範疇に入るものだと考える。

  • 高良倉吉氏(琉球大教授=琉球史) 背景として重視すべき点の一つは、目前の住民=国民の生死よりも作戦遂行を至上とした日本軍側の論理だ。日本軍側の論理や特質を抜きに「集団自決」事件を説明することは不可能であり、そのことを特筆としつつ歴史としての沖縄戦を提示することが求められている。

  • 秦郁彦氏(現代史家=日本近現代史) 命令は発令、受令者名、日付、番号を記した文書によるのが原則であり、正規の戦隊長命令が出ることはあり得ない。軍命説が成り立たぬ理由としては、自決の「強制」は物理的に不可能に近いこと、自決者は全島民の3割に及ばず多数が生きのびたこと、攻撃用手榴弾の交付は集団自決との因果関係はないことなどがある。

  • 林博史(関東学院大教授=日本近現代史)米軍に捕らえられると残酷な扱いを受けて殺されるという恐怖心の扇動、多くの将兵が予め手榴弾を配って自決せよと言い渡していたことなど、軍は様々な方法で「集団自決」を強制していった。部隊長が直接命令したかどうかという論点から強制と誘導を否定することはできない。

  • 原剛氏(防衛研究所戦史部客員研究員=軍事史) 渡嘉敷、座間味の集団自決は軍の強制と誘導によるとは言えない。「捕らえられて殺害されるか辱めを受けるよりも死を選ぶ」風潮が強かったこと、「捕虜になるのは恥ずかしいこと」という観念があったことが原因と考える。ただし、このような事態に追い込まれたのは、政治・教育・社会風潮・戦争などから醸し出されたものだといえよう。

  • 外間守善氏(沖縄学研究所所長=沖縄史) ①日本本土の一億日本人のため沖縄島は防波堤として使われた。②軍の存在は住民にとって脅威で、軍隊という組織と秩序は沖縄島を守り住民を守るためと理解されていたが、戦闘に入った瞬間、島民は逃げ場を失って右往左往した。集団自決の問題も①②の問題に通底している。

  • 山室建徳氏(帝京大講師=日本近現代史) 前後の状況を見ずに、一部の日本軍が住民に自決を強要したとだけ記述するのは、それが事実だったとしても、適切な歴史叙述とは言い難い。少なくとも日本軍将兵の「集団自決」や特別攻撃も合わせて記述すべきだろう。ともに、日本人の戦死観を考える上で、欠くことのできない要因だからだ。

  • 匿名希望の軍事史家(要旨を文科省が発表) 沖縄戦は、日本国土が戦場となった希有の例であり、住民が戦闘に巻き込まれた。集団自決の起こった原因・背景としては、敵から逃げることができず、投降すべきではないという集団心理が働き、軍人に要求される規範が住民に心理的強制として作用したことがある。
さすがに専門家の発言なので勉強になる。文科相が選んだ専門家なので、おそらく”かたよりなく”選択されているのだろう。秦氏は典型的に軍命に矮小化しているように感じられる。それにしても島民の3割近くが自決したとは大変なことだと教えられた。人によってニュアンスは異なるものの、支配的なのは軍の強制を肯定している考え方のように思える。とりわけ、多くの専門家が”軍の強制”をどうとらえるかということで意見を述べているのが注目される。審議会がこれらの意見から、3つの「基本的考え方」にまとめているはずなのだが、隊長命令と強制とを使い分けることで無理矢理”検定意見は撤回しない”という結論に持っていっている観が免れない。せっかく専門家の意見を聞いたのだから、軍の強制をどうとらえるかについても専門家の意見に従えばよいのだ。
文科省の審議の枠組みから考えても、沖縄戦集団自決への軍強制の記述に今年いきなり検定意見がついたことは説明できず、検定意見は撤回すべきで、当初の執筆者の記述の復活こそ行われるべきだ。

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